西福寺 北区豊島2丁目14-1 ☎3911-2266
真言宗豊山派、山号・三縁山、院号・無量寿院、今から約1200年前の45代聖武天皇の時代に創建(行基の開山との説もある)されたと伝えられている。
江戸末期までは長福寺と号する禅寺だったが、その後、真言宗西福寺と寺名を改め現在に至っている。
本尊の阿弥陀如来は行基の作(大戦での焼失後、同じ姿、同じ高さの丈六(5m)、極彩色金箔塗の露天大仏として、住職小松原大僧正の発願に依り建立)で豊島清光(清元)との間に伝わる江戸六阿弥陀第一番の札所として広く信仰を集め、関東一円から年十万人もの参旨者がお参りしたと伝えられている。
行基と清光の出会いは時代に差もあってあくまでも伝説の中のこととなるが、その由来は「清光の一人娘・清姫と安達少輔の間に婚約がまとまり、俗に足入れの儀が行われたが家風に合わぬということで破談。悲観した姫は帰途の船から荒川に身を投じ、5人の腰元もこれに続いた。清光はこれを悲しみ熊野に詣でた折、山中に一本の大木に出会いこれを海中に投じた。豊島に帰ってから一年、木は足立区熊の木に流れ着いたので清光はこれを喜び、折しも巡錫中の行基に願って六体の阿弥陀像を得、元木の像を当山に安置、残りの五体は腰元それぞれの出生地の寺に奉納した」と伝わっている。
台座に逆さ卍の六地蔵が境内に入って右に安置され、昔から庶民に親しまれているが詳細は全くの不明。
また、その左には彰義隊慰霊碑・六士銘記が建っているが、これは維新の際、上野に立て籠もった彰義隊の六士が敗走して石神井川で戦没、槍溝の住民が地蔵を建て葬ったが、昭和11年の道路整備の際にお寺に移転、戦災で碑だけが伝わっている。
サイパンの地で大戦の慰霊祭が催され持ち帰った遺骨等を埋葬した彩帆観音塔や笠付きで三猿がそれぞれ一面づつに別れて彫られる珍しい庚申塔も見逃せない。
<補足>
1.身代わり地蔵のお話 (門前右手のお地蔵様)
昔、藤原氏に勝気で美しいお姫様がおられ、双六(現在のバックギャモン)では家中近在に並ぶもののない腕前となり、次第に高慢な性格を募らせていきました。噂を聞いた旅の若者が勝負を挑み、負けたら裸になる約束で対戦し勝負はお姫様の負け。見知らぬ若者の前で裸になる訳にもいかずお姫様は進退きわまり、高慢な性格を恥じて心からの懺悔をいたしました。その時、双六盤の上に上半身裸のお地蔵様が現れ、お姫様の身代わりになって危機をお救い下さった。それ以来、そのお姿を写して「身代わり地蔵」とし朝夕お参りし高慢な心を改め安らぎの心を得たというお話です。
2.お馬さんの墓 由来のお話 (門を入って左手にお馬塚)
民謡「よさこい節」は土佐の36歳の修行僧・純信と16歳になる鋳掛屋(いかけや)の娘・お馬の恋のいきさつを、城の若侍を中心にやっかみ半分で歌ったと伝わっていますが、手を取り合っての逃避行も純信の投獄で二人の恋も引き裂かれる事となります。その後、お馬に同情した大工さんと結婚し2男2女に恵まれ、明治18年48歳の時、東京で働く長男を頼って上京、明治36年66歳で亡くなった事が西福寺の過去帳からわかり、改めて碑が建てられこの地に祀られていす。
3.奉石橋のお話 (仁王門前左手の碑)
今は豊石橋と書かれる豊島と堀船を結ぶ小橋は昔から往来の絶えない古道でした。享保(1716年~1736年)の頃は大水のたびに流されて修理もされずに放置されていたのですが、そんなある日、夫婦の六部(66部の法華経を各地に納めるため遍歴する修行者)がこの地を通り、村人の手を借りて苦心して石神井川を渡りました。岸のそばの名主になかなか修復のできない橋の事情を聞いて去ったのですが、しばらくたってから、「秩父の某氏から頼まれて橋を架けかえるので了承いただきたい」と石屋が村を訪ね、無事に工事を終わらせ一体の石地蔵を納めて帰って行ったとの事です。「奉石橋」と書かれたのは村人がこの橋に感謝の心を表したものと伝えられ、碑はこの寺の関係者による寄贈との事です。