「不動の滝」「正受院」はこの先
「不動の滝」「正受院」はこの先
近藤重蔵の甲冑姿石像
近藤重蔵の甲冑姿石像

正受院

浄土宗、思惟山浄業三昧寺(しゅいさんじょうごうさんまいじ)。本尊は阿弥陀如来像。弘治年間(155558)大和国の学仙坊という僧が霊夢によって武蔵国に来てこの寺院を開いたと伝わる。本尊阿弥陀如来像は行基の作と伝わる。明治35年建立の中国風鐘楼門があり、昭和16年まで明け六つ暮れ六つの鐘を鳴らしていた。本堂前に近藤重蔵守重の甲冑姿石像がある。近藤重蔵は寛政10年(1798)国後・択捉など北方を探検し、択捉島に「大日本恵土呂府」の木柱を立て、領土宣言をしたと言われる。この間の事情は司馬遼太郎の「菜の花の沖」に詳しい。近藤重蔵は正受院東隣に滝野川文庫を建て、自らもそこに住んだことがある。石像がここに移されたのは明治の初めごろという。

 

昭和29年、水子供養の慈眼堂(じげんどう)が建てられ、赤ちゃん寺の名で知られるようになった。慈眼堂の左側に不動堂があり、不動明王像が収められている。この像は洪水の時、学仙坊が川の中から得たもので、弘法大師作と伝わる。不動堂の右脇を流れ落ちるのが「不動の滝」で、歌川広重が繰り返し何枚も描いている。江戸から明治期に有名だった不動の滝だが、現在はその痕跡を探すのが難しい。