豊島園から石神井池まで(なじみ研究会+平田英二氏)提供
豊島園から石神井池まで(なじみ研究会+平田英二氏)提供

 

ワンポイント解説

 

下練馬道(鎌倉道・遅野井道)

     高井戸〜世田谷〜鎌倉へ、また遅野井(善福寺池)経由武蔵国府への道。

 

中之橋から望む練馬城跡「矢ノ山」練馬城は豊島氏の支城。

 

向山庭園 海老ヶ谷戸の由来と考えられるミニ谷戸。空濠として利用。

 

石川橋 用水が合流。洗い場があった。

 

尾崎遺跡 春日小学校体育館建設の際に発掘調査。旧石器から江戸時代まで続く遺跡。縄文早期、尖底・丸底の撚糸紋土器。中世の用水や井戸の跡。愛染院の前身と考えられる中世寺院の墓地跡。氷河期から江戸時代に至る柱状土壌サンプルの花粉分析で過去の植生を推定復元などで注目。

 

田中の森 昔は地域のランドマークになっていた大きな屋敷森。

 

貫井川 石神井川では田柄川に次いで大きな支流で、谷頭は上石神井にある。1980年代に埋め立てられ暗渠に。貫井川と呼ばれていたのは貫井池から下流部分。別称、かんちょう川(灌頂川)、かんとう川など。

 

水神宮(弁天) 貫井川からの分水点にまつられた弁天様。

 

円光院 南池山貫井寺円光院と称する真言宗の古刹。飯能から勧請した「子ノ権現」を観世音菩薩として現在は本堂に安置。足腰の神様とされたことから、清戸道を往来する馬匹たちに信奉され、馬頭観音多数が寄進され、また参道で馬駈市が開かれた。

 

東高野山碑 清戸道と東高野山(長命寺)への道の分岐点に建つ道標を兼ねたた石碑。寛政十一(1799)銘。

 

おさる坂 石神井川に下る清戸道の坂。猿を刻んだ庚申塔があった。 花嫁行列が通ってはいけないとされた。

 

宮田橋敷石供養碑 かつて用水を渡る宮田橋のあたりは湿地で道が悪く沿道の村々で金を出し合って石を敷いた。文化四年(1807)銘の供養碑に、遠くは現・所沢市の下荒井、中安松などの村人の名もある。

 

道楽橋 工事が遅く、道楽で造っていると揶揄されたが、実際は「道が楽になるので道楽橋」あるいは「堂楽橋」という。

 

虚空蔵堂 今は無住の小さな堂がのこる共同墓地。「マリア地蔵」があったが、今は近くのお宅の庭に安置。近くには、はりつけ塚がある。

 

谷原 や(谷)も、はら(原)も元は氾濫原のこと。石神井川流域では最大級の氾濫原があった。武蔵野台地などでは、小高く茂った崖線斜面林を「ヤマ」と呼んだ。このあたりにも、春木山、二本木山などの地名伝わっている。

 

弁天池(つきのい)跡 今は市杵島神社の小祠がたつだけだが、昔は小さな湧水池があり、高松方面への用水の水源になっていた。

 

富士見橋 東高野山道の石神井川に架けられた橋。

 

薬師堂橋 かつては西武線鉄橋付近から上流の元締山を望めた。今は都営団地がたち、桜並木が育ち、桜の名所になっている。薬師堂は近くに薬師堂があったことからの小名。明治期すでに廃寺になり、石柱だけ残っていたが、今はそれも近くの観蔵院に移されている。

 

元締山 この近くで材木屋を営んでいた家が、明治期まで材木を集めて川に流して出荷する元締めをやっていたので、その裏山を元締山と呼んだ。植林されたヒノキが育っている。近くには、昭和30年頃、河川改修に合わせて造られた水門があり、右岸・左岸両方の用水を取水していた。

 

南田中憩いの森 塚越の森緑地、南田中稲荷憩いの森と連続し、石神井川沿いでは最もよく崖線斜面林が残されている。ムクノキ、イヌシデ、エノキ、ケヤキをはじめ、水辺を好むコナラ、エゴノキなど、昔ながらの植生がみられる。

 

川の横断面「三本川」の構造がよく観察できる。

 

山下橋 千川通から石神井公園駅付近まで、昭和10年代に開通した新道の橋。わずか1・5キロ弱、幅5メートルほどの道だが、記念碑がてられている。三宝寺池から流れてきたかつての石神井川本流は、元は橋の下流で合流していた。

 

和田堀緑道 本来はここが石神井川。1980年代に暗渠になり、緑道整備され、この名がつけられたが、本来「和田堀」と呼んでいたのは北側崖線下の用水だと思われる。

 

石神井池(ボート池) 昭和9年(1934)道路堰堤で川をせき止め水田をつぶして造成されたボート池。石神井風致協会が坪一銭五厘で借地した。昭和34年(1959)東京都立公園になった。