熊谷源左衛門君碑  音無橋下

 

 

1)明治初年、世の中は農業(米穀)生産中心の時代であり、東京周辺といえども、土地や農業用水を工場のために提供してくれるところはおいそれとはなかった。

 

2)そのなかで唯一王子村だけが、積極的に抄紙会社を受け入れたのである。地元側で誘致の中心となって活躍したのは、当時王子村の組頭役であった熊谷源左衛門であった。

 

3)当時の王子村の状態は一寒村で、農業のみをもって生活するのは困難だった。そのため、春秋、王子稲荷の参詣人や飛鳥山の遊覧者に飴菓子等を売り、または飲食店を開いて生計の不足を補い、辛くも「炊煙を揚げる」状態だった。

 

4)1873年(明治6)9月、抄紙会社工場を王子村に創設しようという計画が持ち上がり、会社側から、用水の分給、敷地の買収について村吏に要求するところがあった。この機会を逃せば二度と王子村救済の道はないと考えた源左衛門は、会社のために奔走し、用水組合二十三か村を説いて用水六六坪八合の分与を承諾させ、敷地の買収を拒む村民を説く一方、会社に対しては永久用水費大部分の出費を約束させ、代地提供の要求に応じさせ、従業員の募集を王子村において行うことを約束させた。

 

5)彼は、維新以来衰微した王子村に抄紙会社を積極的に誘致することによって、地域の活性化を図ったのである。用水と土地を提供する代わりに、会社側に用水費用の負担と村人の雇用確保を約束させる、現在ではごくあたりまえになった企業誘致による地域振興の手法を、明治初年の段階でいち早く取り入れたところに、熊谷の「先見性」がうかがえる。(出典 北区史 通史編 近現代 )

 

補足 熊谷源左衛門氏の碑

 

   熊谷源左衛門君碑

 

     東京府知事正三位動二等男爵千家尊福篆額

 

 君名源左衛門、熊谷氏、武州北豊島郡王子村人、以天保十三年正月廿八日生、初専務千畦圃、明冶二年八月浦和縣○擧以爲王子村組頭、後管於東京府、十四年十一月爲戸長、廿二年改村長、三十七年一七日以病歿于職、享年六十有三、君資性寛怨、執事明夙注意水利、北豊島地勢概平指悉通溝渠、引河流以濯漑、而従来管理法未備動、輙致紛紜、君憂之、創隣郷不相侵之約首設之、石神井分渠施及千川玉川派流盡締盟無復喧擾、君皆臾有力焉、又甞謂厚民生賑郷閭莫善於工業、時會諸工場興於是他者陸績相沓、其方相地也、民或不肯售善、則君介其間懇論以應之、工事隆盛遂冠都下、其他設農耕試場及児童教童莫不盡意、官賞其攻賜金敷次、郷黨亦懐徳弗謑、今茲胥謀鐫石以垂後昆、銘日、

 

  飛鳥崗下 南陌東阡 一望萬項 溝洫腴田 轟突駢植 煤烟衝天 丈夫勵業 子女爭先 昔時碧落 茅茨采橡 分則櫛比 棟甕濇甑 謹勉在職 三十六年 功防貞石千載維傅

 

  明治三十八年拾二月

 

                    東京府北豊島郡長従六位動五等田中端撰

 

                               香渓山内 昇書

 

                                井泉 刻

 

 出典 (王子町誌)