広重「王子音無川堰セキ世俗大滝ト唱」1857(安政4年)
広重「王子音無川堰セキ世俗大滝ト唱」1857(安政4年)
現在の音無親水公園
現在の音無親水公園

 

音無親水公園 (王子本町1-1-1先)

 

1)江戸時代この付近は音無渓谷と呼ばれ、歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれ江戸の名所の一つに数えられていた。享保5年(1720)に吉宗が川沿いに270本の桜を植えさせ、翌年飛鳥山全山に桜を1000本植え江戸庶民の行楽地とした。また江戸時代には石神井川の水は近郊農村で農業用水だけではなく、脱穀製粉にも使われ、水車のある田園風景が拡がり、川沿いの傾斜地では宇治茶に劣らない風味と評判を呼んだ茶栽培が行われていた。この音無渓谷のイメージをモチーフにして川と街路が一体となった公園が音無公園である。

 

2)計画の背景と竣工まで

 

戦後の経済復興、発展とともに流域が急速に開発され河川施設の老朽化も顕著となり、洪水氾濫の危険性を高めることとなった。このため昭和40年代より河川改修工事が進み飛鳥山水路トンネルの完成など昭和50年代の後半で整備が完了した。その結果、河川は高いコンクリート護岸で覆われ、無機的でしかも普段は少量の水を流す状態で、一度雨が降ると汚染された排水が大量に流れ込み、あたかも排水路の相を呈した。都市環境の改善と市街地の活性化を図りつつ、河川を人々の心に取り戻すためリバーサイドスクエア整備事業として昭和60年度着工し、635月開園した。

 

3)石神井川

 

水源は、小平市鈴木町辺りで、田無・保谷を流れ練馬区に入って三宝寺池の湧水による支流を合せ、飛鳥山の北端を通り隅田川に注ぐ。石神井川の名は三宝寺のある石神井に由来し「新編武蔵風土記稿」にあるように三宝寺池を源とする文献も少なくない。

 

4)この石神井川と幕府が大砲製造用動力として引水した千川用水を、幕府が倒れたのち、これを鹿島万平が紡績の動力に利用し、その排水を渋沢栄一は抄紙に利用、更に大蔵省印刷局抄紙部が抄紙会社の半分の水を召し上げて利用した。この水利水力を利用した工業が興り王子は発展していった。

 

昭和33年「狩野川台風」王子駅前
昭和33年「狩野川台風」王子駅前

 

補足:音無親水公園

 

1)石神井川の氾濫と護岸工事及び緑化事業

 

戦後の石神井川流域の都市化や、屈曲の多い川筋も要因となり、集中豪雨等、急激に水量が増加した時に対応不能となった。昭和33年の狩野川台風の際は、石神井川が氾濫し、2m水没したといわれている。対策として川筋の直線化、護岸工事が行われた。しかし、王子駅は石神井川の本流に位置していたため度重なる被害をうけた。そこで昭和41年より43年に音無川上流で飛鳥山の山腹を抜ける延長472mの直線のバイパス工事等が行われた。飛鳥山の下にトンネルを通し、王子駅南口あたりで、音無親水公園からふれあい広場を抜けた流れと合流し、隅田川へ流れ込んでいる。これにより、王子駅付近の洪水は解消した。その結果、取り残された蛇行部分を利用して、2か所の緑地公園と、音無橋の真下には音無親水公園が生まれた。

 

2)事業の概要

 

  整備面積  5,000

 

①護岸;増水時の防災機能を備えるため、毎秒30tの流下能力を持つ河積を確保して、老朽化した在来護岸の前面に石積護岸を設置した。石材は、経済的で色彩がやわらかい木曽石を多く用いる。

 

②流れ;“人と水”をテーマに水を人々の身近に取り戻すことに留意した。上流には荒々しい岩組や流木、中流には玉石・せせらぎ、下流には船・橋・水車等を配して川と人間とのかかわりを表現した。また上流側は、夏季に入って遊ぶことができるよう上水を導入し、下流側に設けた貯水槽のポンプで循環して使用している。

 

③魚道;浄化施設でろ過した水は右岸端の幅1mの水路に流下させ、ところどころに魚類が遡上しやすいよう魚巣ブロックを設置し、水生生物を着生させ自然景観を創出した。

 

④橋(復元);現在の白木作りの舟串橋は、明治40年にかけられたもので、海老屋・扇屋のやや上流にあったが、狩野川台風などで老朽化し撤去されたものを復元したものである。

 

3)受賞

「日本の都市公園百選」 受賞年月日 平成元年7月28日

※他には、国営昭和記念公園・日比谷公園・上野公園・水元公園・代々木公園が選定された。

「手作り郷土賞(街灯のある街角)」 受賞年月日 平成2710

 

出典 『北区史』通史編資料編ⅠⅡ 北区役所

         「音無親水公園 リバーサイドルネッサンス」 北区役所建設部河川公園課編