板橋区大谷口北町在住 矢上進也さんの「手紙」より
石神井川の思い出
1.石神井川の楽しい思い出(小学校2年頃から中学2~3年頃にかけ)
昭和23年頃から昭和28、29年頃にかけては洪水も頻繁にあって、怖い思いもしたけど一番石神井川と親しんだ時代だった。多い時は近隣に12軒もの牧場があって朝になると、「森永牛乳」とか「興信牛乳」の牛乳回収のトラックが決まった時刻に牧場を廻っていった。なんでも東大付属病院とか慶応大学病院などで患者用サプリメントに優先的に提供したようだ。我々は高くて滅多に口にした記憶が無かった。ただ我が家も養鶏(親父が退役軍人で公職に就けず、家計の足しに始めたもの)を営み100羽ほど鶏を飼っていた。卵は近所に売りに行ったり、残りは牧場へ牛乳と交換したりした。濃厚で甘くて、今のコンビニで売っている薄い牛乳とは大違いだったね。
鶏の餌としてザリガニをとる為に夏場はほとんど毎日川に入っていた。自分なりのテリトリーがあって上板橋と山崎橋の間が自分のエリアと決めていた。牧場で一斉に夕方牛糞を川に放出すると川面の色が茶色になる一刻以外は清冽な流れの底に川藻が揺らめいていた。狙う獲物は「ザリガニ」だった。前日に空缶を川藻の間に仕掛けて置き、翌日中に入っているザリガニを次々とバケツに捕獲していくわくわく感は格別だった。ザリガニが後方に逃げる習性を逆手にとるという訳。大きいザリガニは土手に巣穴があるので見当がつく。こうして多い時は60m~70m区間で200匹近く獲った。時々自分のそばを小さくて細いきれいな色をした川トンボやオハグロトンボが飛んでいて、川の中は別天地だっ
たな。川辺に住んでいると、四季それぞれに「子供の遊び」があった。冬は川向かいの友達とメンコかベーゴマ遊び。メンコは同じ枚数を賭け札に出して、1対1勝負、自分が地面に叩きつけたメンコの上に相手のメンコが風圧で乗ったら勝ちという訳。ベーゴマは「鉄ベー」と言って平たいタンク形が強いので、売っている富士山形を削って相手好みの平形にする。
改良道路(今の国道254号線)の交通量が少ないので、竹の先に独楽をつけて道路の真ん中あたりで磨いていく。春は川の水は冷たいので無料の釣堀で口ボソ、たなご釣り、それに池底にいる大きなカラス貝は鶏の餌にした。魚を釣る餌は全て「みみず」で足りた。 夏は川の所々に瀞(とろ)があって泳ぐのが楽しかった。それに夕方にはトンボとり、特に「チャン」「ギン」と呼んだ雌雄のヤンマは色のコントラストがきれいで魅力的。とりわけメスは尾が茶色、頭部がグリーンできれいなトンボだった。時々牛ガエル(食用蛙)が鳴いていて、プロのハンターが獲りに来ていた。又川の水の増量した日はナマズハンターのおじさんが餌を仕掛けにきていたりした。
そうそう春の桜の花見の時は我が家の前をゴザやむしろを抱えた家族が上流の「毛呂山」「ハゲ山」(桜見の名所)目指して、ぞろぞろ通っていったな。亡くなった親父は山崎橋のたもとの底浅の砂利場で「しじみ」を採っていた。河口の方しか採れないのに汽水が交じっていたのかな。今では石神井川は護岸工事によって、洪水防止の為だけのコンクリートに固められた無機質な河川に変貌してしまった。しかし、つらかった洪水も少年の日の川遊びも実になつかしい思い出だ。
2.石神井川の怖い思い出
現在の大谷口に居を構えて76年になる。元々祖父の代は大塚辻町にあって学生服の仕立て業を弟子を数人使って営んでいた。そう東武東上線の始発駅になったかもしれない土地だった。ところが祖父は無類の釣り好きで、大谷口に釣り堀が多い土地で毎日釣りが出来る、それだけの都合で父の代になると仕立ての仕事を畳んで移住してきた。川の土手には桜の木が延々と1,000本余も植えられ、近隣には田畑も多く、牧場も多くのどかですっかり気に入ったらしい。「洪水で苦しむことになろうとは露ほど考えてなかった」と父が言っていたのを覚えている
生まれてこの方何度洪水にあったのか多くて忘れてしまった。昭和28~29年頃中学に入学した頃暴風を伴った大型の台風があって、川の水は床下まで上がってきている上、表の庭先の方(南方)からは風速40m位の暴風。雨戸が飛ばされないよう皆で鴨居にぶる下がって雨戸が飛ばされないよう押さえていたのは、はっきり覚えている。まわりに人家がほとんど無く、防風林として椎の木が植えてあるんだが全く効果が無く、強風の過ぎ去る1時間ばかり、懸命に全員で風に押され、しなった雨戸を押し返した。なんとか無事にしのいだが怖かった。一番恐ろしかったのは、1958年(昭和33年)9月末の狩野川台風かな。風はそうでもないのだが雨量が100ミリはゆうに越えていた。家の中に畳を載せる土台を組んで、全ての畳を載せたんだが、川の土手から更に2mばかりも水量が増えて、石神井川が100メートル以上の川幅になって濁流となり時速40Km~50Km位で流れていくんだ。しかも真夜中で雨は止むことなく降り続き、土台の上でふるえながら南無阿弥陀仏とお題目をとなえていた。
いつもそうだったが川の土手を水があふれた頃(いわゆる洪水)はまだ良い。心配する電話の声、救急車のサイレンの音、いわゆる生活の音が活気良く聞こえるのだが、水量・雨量も限界を超えると、全ての雑音が流れる川の水に吸収されていって、ただ床上浸水の水量がじくじくと上昇していく。怖さは火事とか地震の比ではない。絶対この場から逃げられない孤立感は火事・地震とは比較にならないな。それに根こそぎもぎとられて流された木橋が上板橋に激突する音は焼夷弾の落下音のようで不気味だったよ。水が引いた後は全て手早く家具の汚れを洗い落さないと使いものにならない。タタミは半分濡れたら使いものにならないので畑に大きな穴を掘って埋めていく。
大抵洪水は大きなものは9月末に起こるので乾燥期間は1ヶ月かかる。その間に防犯に隙が出来て、火事場泥棒(洪水泥棒と言うべきか)が横行したりナメクジの大発生、疫病の発生に苦しむ。次の年1959年(昭和34年)は伊勢湾台風だった。なんとか床下浸水で済んだが川越街道からわずか100mほど上流の我が家に辿り着けずに東山町の叔母さんの家にとまった。川が氾濫して道路に水があふれて腰位までの深さ、足がすくわれて歩く状態ではなかった。治水がほぼ落ち着いたのは、昭和54年栗原橋までの護岸工事が完了して浚渫が済んだ頃だった。今でも激しい雨が降ると、必ず窓を開けて川面の水位を心配する習性は変わらない。
下の写真は、石神井川の氾濫 昭和52年のものです。