コラム  陸軍第二造兵廠で生まれた曲   惜別の歌

              碑  誌 (長野県小諸市 小諸義塾内)

 

この歌は、藤村の詩に、藤江英輔が曲を付した。

 藤村の原詩は明治三十年に刊行された『若菜集』(春陽堂)所収の「高楼」(たかどの)である。

 その前年、藤村は三月と十一月の二度にわたって小諸に恩師木村熊二を訪ねともに

 懐古園周辺を逍遥した時に、この詩想を得たといわれる。 

  明治三十二年藤村は小諸義塾に赴任するが、その翌年雑誌『明星』(与謝野鉄幹主宰)に発表した「小諸なる古城のほとり」(原題「旅情」)とともに小諸郷愁の詩である。

  藤江英輔がこの詩に作曲したのは、昭和十九年暮れ、太平洋戦争の末期である。当時

 中央大学予科生だった藤江は、敗戦間近の暗澹たる時代を、東京板橋にあった陸軍造兵廠に学徒動員され、兵器生産に従事していた。

  同じ工場で働く学友達に日々召集令状が届く。再会のかなわぬ遠き別れが次から次へと続く。その言葉に盡きせぬ思いを、藤江はこの詩に託して曲を付した。それはいつしか出陣学徒を送る歌となった。造兵廠に送られてきた他の大学生・女子学生・旧制中学生もみなこの歌で出陣学徒を送った。

 

 そして、戦後この歌が別れを惜しむ抒情歌として一般化した時、問題があった。「高楼」を「惜別の歌」とし、「かなしむなかれ わがあねよ」(原詩)を「わが友よ」に歌い替えていたことである。幸いだったのは、藤村の著作権継承者の一人である島崎蓊助と藤江は藤村全集(新潮社)の編集を通して面識があった。蓊助はこの変更を許諾した。以後この歌は中央大学の学生歌として歌い継がれ、また多くの人々に愛唱されるようになった。

 

 以上の経緯を知った小諸・佐久在住の有志は、この歌碑の建立を発願し、広く多くの協賛者と小諸市の前面協力を得て、高村豊周(千曲川旅情のうた歌碑製作者・・昭和二年建立)の孫弟子にあたる金属造形家、伊藤邦介の鋳造制作により、ここに成就した。

  藤村の顕彰と、この歌に送られて再び帰らなかった出陣学徒の鎮魂を祈念して。

                                   (敬称略)

 

             平成八年五月

          「惜別の歌」 歌碑建立実行委員会

 

☆惜別の歌

    昭和19年、軍需工場に勤労動員されていた中大予科の学生グループに、同じく動員された東京女高師(現・お茶の水女子大)生徒が『若菜集』所収の長詩「高楼」の一節を贈りました。ギターの得意な中大生の藤江英輔がこれに曲をつけ、出征する学生を送る歌に。原詩の「わがあねよ」が「わが友よ」に変わっています。戦後、全国に広まって歌声喫茶の愛唱歌となり、昭和36年、小林旭の歌唱でレコード化されて人気を集めました。