板橋むかしばなし

 

「下頭橋(げどばし)」の六蔵さん

  

むかし、江戸から川越まで歩いていくときには、中山道板橋宿の平尾から川越街道に入り、上板橋や成増を通って行きました。川越街道が石神井川を越えるところの橋を「下頭橋」といいます。むかし、この橋は木の橋で、大水が出るたびに流されてしまいました。橋が流されると人々は、とても不便な思いをしました。

 

この木の橋のたもとに、ひとりの乞食が住んでいました。いつも、橋を通る人たちに深々と頭を下げ、一文、二文のお金を恵んでもらっていました。この年をとった乞食さん、自分の生まれた国も、自分の名前も、年もわかりませんが、人となりが良かったのか、宿場の人たちに大へんかわいがれ、誰れがつけたともなく、「六蔵」と呼ばれておりました。

 

子どもたちが六蔵のことをからかっては「下頭六蔵わーい、わい、いつも頭を下げている。」「こじき六蔵わーい、わい、いつもむしろにすわってる。」などと、はやしたてていました。子供たちにいくら馬鹿にされても、からかわれても六蔵は決しておこったり、どなったりしたことはありません。雨の日も風の日も、いつもじっと我慢して、通りすがりの人々のわらじをみつめていました。人々は、おとなしい六蔵をかわいそうに思い、ここを通るたびにお金をめぐんでやりました。

 

こうして、いくたびか春がすぎ秋がめぐりました。ところがある冬の朝のこと、橋の近くに住んでいる人たちは、冷たくなって死んでいる六蔵の姿を見つけました。

 

村の人々は「かわいそうに、たとえ乞食でも死ねば仏だ、葬ってやりましょう。」と言いながら体を持ち上げました。すると、体の下から何んと、お金がざらざらと出てきたのではありませんか。六蔵は今まで恵んでもらったお金をみんな貯めていたのです。「こりゃー、大金だ、どうしよう。」と村の人々は身寄りのない六蔵のお金の仕末に困ってしまいました。

 

その時、旅のお坊さんが通りかかりました。お話しを聞いたお坊さんは、はたとひざを打ちながら「村の衆、この六蔵さんの行いは菩薩行というものです。六蔵さんは、皆さんからほどこしを受けていましたが、それは世の人々を彼岸へわたそうと願っていたからでしょう。この六蔵さんの悲願を私たちで果たせてあげようではありませんか、このお金でここに、立派な橋をかけて六蔵さんの霊をとむらいましょう。いかがですかみなさん」と言いました。村の人々は、このお話にみんな賛成しました。六蔵さんは、村人の手で厚く葬られ、お坊さんはありがたいお経をあげて下さいました。

 

その翌日から橋のかけがえ工事がはじまりました。村の人々は土を掘り石を運び、一心に協力しました。お坊さんのさしずで、立派な石の橋が出来上がりました。

 

人々は、この橋を「下頭橋(げとばし)」と名づけました。もう大水が出ても橋は流される心配はありません。

 

 ところが不思議なことに、橋が出来上がりますとさきほどのお坊さんの姿は、ふうっと見えなくなってしまったのです。後には、榎の杖がさかさに差してありました。人々は「あれはきっと、えらいお坊さんだったに違いない。弘法大師さまのお姿ではなかっただろうか」と、うわさをしました。

 

さかさまにさされた榎の杖は、芽を吹き枝を張り、大きく育ちました。出来上がった石橋のおかげで村の人々は、大水で流される心配もなく、それからは安心して暮らせるようになりました。

 

川越のお殿様も、江戸からのお迎えや送りの家来たちの頭を下げている中を「下へ、下へ、・・・・」の掛け声ものびのびと、幾たびかこの石橋を渡ったことでしょう。

 

やがて榎はふた抱えもあるような大木になり、根元にできたほら穴には、木のぬしと言われる白蛇がすみつき、ながく宿場の人々からうやまい恐れられておりました。

  

ちなみに小説家「吉川英治」が昭和8年「オール読物5月号・名作短編集」で「下頭橋由来」という話を掲載しています。

 

ものがたりは、樽屋という旧家の18歳になる娘が石神井川の仮橋から落としたかんざしを、必死にさがす乞食の「岩公」と娘の心境が描かれています。

 

乞食の「岩公」は小田原の若党「佐太郎」と称し、小田原大久保加賀守の家来「岡本半助」弟妹の敵(かたき)役となっており、最後は首をはねられ仇討で死んだことになっています。「岩公」が残した金子が入った袋には「下頭億万遍一罪消業」が書かれていました。