石神井川と正岡子規
大和伯美
若鮎の二手になりて上りけり
石神井川のほとりに、板橋区文化振興財団の建立した正岡子規の句碑がある。子規の故郷、石手川で詠まれた句である。若い鮎が激しい急流を、上って行く。中央の大きな岩を避けるように二手になってさらに勢いよく上って行ったというような意味であろう。
明治18年から25年までの年代順に子規自身が編集した『寒山落木』に納められている。
石神井川が昔の清流を取り戻すことを願って建てられた句碑であるが、以前の石神井川に鮎がいたかどうかは、わかっていない。
この句を詠んだ明治25年、子規は、陸羯南の世話で下谷区上根岸に転居している。その後、上根岸82番地に転居し、明治35年9月19日、34歳の生涯を終えている。辞世の句は、死の前日、妹律らに助けられながら、かろうじて筆を持って自力で書いた。
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をとゝひのへちまの水も取らざりき
現在も命日は糸瓜忌として親しまれている。
根岸音無川
柳散り菜屑流るゝ小川哉
明治27年秋の終わりに石神井川下流の音無川を詠んだ句である。あまり風情あるとは言い難い、生活の匂いのしそうな風景だが、実際そんな近所の何でもない川だったのだろう。
子規は、第一高等中学校の学生時代の明治22年5月9日の夜、喀血を起こし、肺病を意味する「啼いて血を吐くホトトギス」と同義の子規の雅号を好んで使うようになった。明治28年(1995)、日清戦争の従軍記者として従軍した帰りの船で大喀血を起こし、翌年には、結核菌が骨を侵す脊椎カリエスが進行していった。歩くことが困難になってからも人力車で外出することを楽しみにしていたが、亡くなる3年前くらいからは、座ることもできずほぼ寝たきりとなった。
もし、歩くことができたら、富士山に足踏み鳴らして登り、黄河の蓮の花を摘み、エヴェレストの雪を食べたいと短歌の中で語っているが、実際には寝返りすることもままならない病人であった。
足たたば不尽の高嶺のいただきをいかづちなして踏み鳴らさましを
足たたば黄河の水をから渉り崋山の蓮の花剪らましを
足たたば北インヂヤのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを
根岸名所ノ内
下駄洗う音無川や五月晴
王子
追々に狐集まる除夜の鐘
いずれも明治30年の句である。音無川は、下駄洗うといった生活の匂いがこれまた感じられる。王子の句は、安藤広重の名所江戸百景『王子装束ゑのき 大晦日の狐火』の版画を思わせる。
子規は、人力車での外出が難しくなってからも変わっていく東京の有様を見てみたいと、明治35年5月、ちょっとだけでもみてみたいところとして活動写真、自転車の競走及び曲乗、動物園の獅子及び駝鳥、浅草水族館、浅草花屋敷の狒々及び獺、見附の取除け跡、丸の内の楠公の像、自働電話及び紅色郵便箱、ビヤホールなどきりがないと言いながらいくつもあげている。東京が、新しい町に変わりつつある様子が思い浮かぶ。
翡翠の魚を覗ふ柳かな
明治35年7月、子規が、柳と翡翠(カワセミ)の句を10句作ったきっかけは、見舞客の誰かがもって来たであろう柳と翡翠の図を、見たことであった。『病牀六尺』に戯れに作ったとある。柳の木が翡翠の取った魚を横目で覗っているという擬人化した柳の目線がユーモラスだ。
子規と石神井川の関係をこの半年探してみたが、あまり関わりのあるものは出てこなかった。子規が好きだったのは、人の集まる雑踏、新しい場所、変わりゆく東京だった。ささやかな庭に面した一室が子規の過ごした場所だったが、子規はもっといろいろなものを見、いろいろなところに行きたかったのだと思う。
ただ、子規の思い浮かべた柳と翡翠の実際の風景をいまだわずかながら残している場所が都内にあるとすれば、三宝寺池と石神井川流域もその一つではないかと思われる。
(注ー編者) 石神井川は飛鳥山の近くで音無川大堰により、上郷用水と下郷用水に分水され、根岸の辺りの流れは音無川と呼ばれていた。