板橋(旧中山道の石神井川に架かる橋)
この橋の名が江戸時代以降、宿名・町名そして区名へと冠称された地名の発祥の地とされている。現在、橋は二つに分かれているが、これはこの地点の石神井川が急カーブしていて、よく氾濫したので、近年になりそれを防止するため直線的な新河川を掘り、そちらの方に水を流したからである。そのため手前の仲宿よりの方が昔の「板橋」の位置にあたっている。
ところで、板橋の歴史の盛衰を長い間、見つめてきたこの橋を巡る逸話が伝えられている。いくつか紹介してみよう。
江戸末期の洋学者・南画家として有名な渡辺崋山がまだ少年の頃、父の家が貧しく、崋山を筆頭に七人の子供を養いかねて、一人の男の子を他家にやることになった。崋山はその弟を板橋まで見送り、雪が降る中を何度も後を振り向き別れを惜しんだという。この話は崋山自身が書いた『退役願書簡』に詳しく書かれているが、戦前の文部省編纂の修身教科書にも載っていた有名な話である。
また、江戸中期の尊王論者で林子平、蒲生君平と共に寛政の三奇人といわれた高山彦九郎が、この橋の上で無頼の徒を一喝して悠然と立ち去ったという伝説もよく知られている。
江戸開府以来、明治・大正・昭和とこの橋を上下しこの板橋を踏み渡った人びとの数は想像もつかなぬほどである。今日にいたるまで橋は幾度か架けかえられてきたが、現在の橋は昭和四七年五月に建造されたものであり、江戸時代のような太鼓橋ではない。
だが、コンクリート造りの欄干には木目が刻まれ、わずかであるが昔の太鼓橋をしのぶように弧を描いている。二つの橋の間には「距 日本橋二里二十五町三十三間」と書いた里程の標柱や、当時の高札の形に似せた史跡の案内板などが建てられており、往時の面影をしのぶことができる。