茂呂遺跡(おせど山と呼ばれ考古学上有名な遺跡)
この遺跡は以前から縄文時代早期の稲荷台式土器などの散布地として知られていたが、全国的に有名になったのは、昭和二十六年に関東ローム層(赤土)の中から「茂呂型ナイフ」と呼ばれる特徴的な石器群が発見されてからである。
「東京都茂呂における関東ローム層の石器文化」(『駿台史学』第9号掲載)という論文によって、その発見時の様子を引用すると次のようになる。
「茂呂町の北は谷に臨み、この谷中に通称茂呂山という孤立丘がある。この孤立丘の北側を迂回して石神井川が流れている。この茂呂山を南北に切って新しい道路が作られ、それはあたかも切通しの感をみせていた。昭和二十六年三月二十九日、この道を通った滝沢浩君は北方の東側のローム層断面で黒耀石製の石器を一個発見、さらに同じ断面でやや南方に群礫の露出しているのを認めた。同君はこの事実を武蔵野郷土館に伝え、また同館から明治大学の考古学研究室へ連絡した。武蔵野郷土館と明治大学考古学研究室は、六月に至って、前記石器発見地の近くの予備調査を行ったところが、再び他の群礫の存在を確認したので、いよいよ共同で七月から本調査を遂行することとした。」
こうして、日本の先土器文化の研究を進める過程において、きわめて重要な意味を持った調査が開始されたのである。調査では先土器文化研究の端緒を切った群馬県岩宿遺跡に次いで大きな成果をあげ、縄文以前で今から七、八千年前にこの地域に人類が生存していたことを証明した。 このようにこの茂呂遺跡は南関東における先土器文化を始めて立証し、さらに関東ローム層の偏年学的研究を進展させる契機になった点で、とくに重要な遺跡として、昭和四十四年三月東京都の史跡に指定されている。現在、史跡に指定されている場所には都で建てた石柱と史跡案内板があるだけで、文化財そのものを目でみることは非常に困難である。