石神井川沿いにあった城跡を巡る 2014-2-3 渡辺久雄
頬に感じる空気は冷たいが心地良い、晴天の冬のある日、石神井川沿いにあった豊島一族の城跡を、愛車エバレスト号<英国生まれの自転車>に乗って訪ねてみた。
豊島一族は、平安時代から室町時代にかけて、太田道灌に滅ぼされるまでの約400年の間、現在の北区、練馬区全域と板橋区、杉並区、中野区、新宿区、豊島区、文京区、荒川区、足立区、台東区の一部に相当する地域を支配していた豪族で、石神井川沿いに、平塚城、滝野川城、板橋城、練馬城、石神井城を築き、一族の繁栄、栄華を極めていたと伝えられている。
荘園の拠点だった思われる平塚城は、そのまま残して、石神井川の水源地、宝寺池の畔に、本拠地として石神井城を、石神井川の下流に、石神井城の支城として、練馬城を築いた。石神井城、練馬城は、共に、本丸に生活痕が見られず、「攻撃を受けた時に篭城する非常用施設」と考えられている。
①平塚城(城主:豊島泰明ほか)
豊島一族の初期の本拠地だが、城跡の位置は不明である。現在の平塚神社付近で、その規模は飛鳥山まで及んだとされているが、証拠は無い。初代城主は豊島太郎近義で、縁起によると、前九年の役後に、八幡太郎義家と加茂次郎、源義綱兄弟が立ち寄り、後三年の役後に、八幡太郎義家と新羅三郎、源義光が立ち寄った時には、近義の饗応に対して、義家から、行基作の十一面観音像と鎧一両の下賜があったという。豊島氏は、元永年間(1118~1119)、この鎧を埋め、塚を築いたが、これが、今も社殿背後に残る「甲冑塚」であると云われている。(塚からは銀環の出土があり、その当時以前の古墳であると推定されている)城は、東側に低地を望む舌状台地の上にあって、防御の為の立地条件は備わっており、遺構は現存していないが、七社神社前遺跡の発掘調査時に、遺構と思われる切岸、 篝火の跡等が発見されている。かつて、平塚神社付近には「角櫓」「外輪橋」等の名があったとされ、神社東側にある「蝉坂」の名は、道灌が攻め上がった「攻め坂」から転訛したと云われている。その他、二町ばかり東に「勝坂」と呼ばれる坂があり、地元では、道灌は蝉坂から攻め上がって、勝坂より凱旋した」と伝えられていた。
②滝野川城(城主:滝野川氏)
滝野川橋と紅葉橋の間に、松橋弁天洞窟跡と金剛寺がある。ここに滝野川城があり、平塚城の支城であったと伝えられている。石橋山の戦いで敗れた源頼朝が、安房国に逃れて再起を図り、鎌倉を目指す途中、滝野川城に立ち寄り、その時、松橋弁天に祈願し、太刀一振りを奉納し、金剛寺に弁天堂を建立し、田地を寄進したと伝えられている。
③板橋城(城主:板橋氏)
豊島氏の支族である板橋氏の本拠地である。城の位置は、上板橋三丁目、旧加賀屋敷、区内の日暮里山、乗蓮寺付近等諸説あり、確定していないが、有力な候補地は、環状7号線と川越街道が交差する地点にある長命寺が建つ「お東山」で、遺構は現存していないが、石神井川を望む台地上にあり、城地としては好条件な場所であったと思われる。
④練馬城(城主:豊島泰経ほか)
練馬城の築城年代は不明だが、石神井城の支城として築かれ、石神井城が太田道灌に攻められ滅ぼされた際に、共に落城した。石神井川に向かって突き出た舌状台地の先端に内郭があり、東西は天然の深い谷で、かつては、南の台地付け根部分に大きな空堀があったと云われている。内郭の規模は東西約110m、南北約95mで、北東部の75㎡程の平坦部が、物見櫓跡と推定され、鬼門を守る「城山稲荷」も奉られていた。土塁は幅10~15m、高さ約3mで、その頂上部分は、通路だったと云われている。又、南に馬出の跡が確認され、城は、太田道灌との緊張が高まる中で、石神井城と共に、江戸城への「対の城(向かい城)」として大規模な増改築がされたと思われる。遺構は近年まで若干残っていたが、プール施設「ハイドロポリス」建設により消滅した。
なお、その時の発掘調査で、最大、幅10m、深さ4mの空堀、土塁跡が見つかった。又、焼けて煤の付いた礫が見つかり、道灌による城攻めを示す遺物と推測されている。
現在の「としまえん」は、当初、遊具を備えた城址公園として開園され、その名は、豊島一族にちなんで付けられたものである。
白山神社から練馬駅に向かう途中に下り坂があり、練馬城が高台にあった事を示す。
「ハイドロポリス」下の石神井川がカーブしている付近は、「嬢ヶ淵」又は「姫ヶ淵」と呼ばれ、落城の際に、城の姫が身を投げたと云われている。
⑤石神井城(城主:豊島泰景ほか)
豊島一族最後の本拠地であり、都立石神井公園内に、空堀と土塁に囲まれた城跡が、現在も残っている。城は、文明九(1477)年、太田道灌の攻撃を受けて落城した。築城年代は不明だが、城の最終形が完成したのは、太田道灌との緊張関係が高まった十五世紀半ばで、その時期に、江戸城への「対の城(向かい城)」として大規模な増・改築が行われた。城は、東から西へ延びる約1kmの舌状台地の西端から中央部にかけて築かれ、規模は南北約100~300m、東西約350m、面積約3万坪であった。
上図は、出典『石神井川城址発掘調査の記録』より抜粋した石神井城縄張図であるが、城は、北は三宝寺池、南と東は、当時水量の多かった石神井川という”天然の水堀”によって守られており、人工の防御施設は、全て、西向きに造られていた。これは、北、南、東からの侵入が、地形的に不可能であったことを示すと考えられ、台地の付け根部分には、幅9m、深さ3.5m、延長300mの「大濠」が造られていた。
【遊歴雑記】に、次のような記述がある。
『貞治年間(1362~1367)、練馬将監善明というもの、古来よりこのあたり一円を領せり、 善明の昔、居館の地を矢野屋敷(練馬城のこと)と称して、上練馬の中野宮村の持とはなれり、その地処の広さおよそ4~5町四方もあらんか(中略)弘安、貞治年間、下野国宇都宮の城主羽賀入道禅可は板橋筋滝野川村、王子の森等にて鎌倉勢と度々戦いし砌、将監鎌倉勢に追いつめられ、その身唯一騎にて鞭打ち駆け出し石神井村の山中に遁入せしが、程もあらせず敵軍汐の湧くが如く破竹の勢にて山を取巻きしかば、善明は深田の中へ馬を乗り入れ、気をいらだち、あがくと言えども、馬足次第に泥中深く沈み入り進退を失う。敵兵之を取囲んで矢を射ること雨のごとくなれば馬は射すくめられその身は敵矢を受け、あたかも蓑を着る如くなる。
善明『無念なり』といえどもせん方なく、忿怒顔面にあらわれ馬上にて自殺しけるとかや。しかるに月日たち年積って彼の将監死せし処に忽然として水湧き出し土砂を押流し自然に深き池となり、馬の鞍は朽ちもせずその池の主となれり。今、上石神井村にある三宝寺の池これなり。しかし、彼の鞍は今も池中の主となりて、時には水上に浮び見ゆる事もありなんという』
これは、太田道灌と豊島一族の合戦を基にした創作と思われ、以下に示す伝説も、この創作から生まれたのではないかと考えられている。
『三宝寺池には、金の鞍が沈んでいる。それは、池の南にあった石神井城の当時の城主豊島泰経が、太田道灌に攻められ落城する時、家宝であった金の鞍を置いた白馬に跨り、愛娘の照姫と一緒に、三宝寺池に身を沈めた』
明治以降、池底の探索を数回行ったが、いずれも、財宝は発見されなかった。
三宝寺池の東にある石神井池は、昭和九年に、川を堰き止め造られた人工池である。