向山庭園
海老ケ谷戸に比定されるミニ谷戸。練馬城の空堀として利用。
昭和55年に開園した向山庭園は、昭和4年~6年にかけての浜口内閣時代の江木鉄道大臣のお屋敷であったと言われている。
この付近一帯は大正12年の関東大震災まで草木に覆われていたが、翌13年「城南田園住宅組合」の借用地となり、宅地化されていく。当初は電燈を敷く見通しも立たず、道らしい道もなく、せいぜい草地を耕し家庭菜園として利用する程度だった。宅地化が進展するのは、昭和2年に豊島園駅開通後のことだった。
この地点から北側の豊島園にかけての一帯はかつて「矢の山」と言われ、豊島氏の練馬城跡として知られている。
14世紀半ばに石神井川のこの地域は一族の宮城氏から豊島宗家が引き継ぎ、以降大田道灌と戦って敗れる文明9年(1477)まで豊島氏の拠点となった。江古田・沼袋の合戦では練馬城からも軍勢が繰り出されたことが伝わっている。
石神井川流域にはかつて多くの湧水が見られ、こうしたところには古い歴史や伝説が残されている。向山庭園の池付近もかつては湧水池であったらしく、ここから北の石神井川に向かって「海老ケ谷戸」を形成していたと思われる。この谷が練馬城の堀の役割を果たしていた。(参考資料:向山庭園の歴史)