石神井川の概要
流路延長25.2㎞。流域面積61.6㎢。流域の高低差は約85m。
流路の標高は石神井川上流端(公園北橋)が川岸61.5m、水面約60m。
隅田川合流点が川岸3.3m、水面0m。
流路の平均勾配を計算すると1/420になる。
(神田川は流路延長24.6㎞。流域面積105.0㎢。流域の高低差は約60m。
流路の標高は井之頭池が川岸45.8m、水面約45.5m。
隅田川合流点が川岸1.6m、水面0m。
流路の平均勾配を計算すると、1/541になる。)
石神井川が神田川に比べて急流であることがわかる。石神井川は小平市鈴木町鈴木小学校、旧名回田(めぐりた)新田(現在はゴルフ場の小金井カントリークラブ)を源とし、田無・保谷の二市(現・西東京市)を流れ、練馬区に入って三宝寺池の湧水による支流を合わせ、板橋区の東端から渓流となる。この谷は石神井渓谷、滝野川渓谷、音無渓谷の名で呼ばれ、飛鳥山の北端まで続く。その先、流れは荒川沿岸の低地に入り、隅田川にそそぐ。
石神井川の名は、三宝寺池のある石神井の地名に由来する。「新編武蔵風土記稿」に「石神井村三宝寺池ヨリ流出ス」とあるように、三宝寺池を源とする文献が多い。石神井から流れ下るので「石神井川」で、江戸時代は三宝寺池の湧水が圧倒的に多かった。現在本流とされている小金井公園からの流れは単に「大川」と呼ばれ、また石神井付近では「関の溜井からの流れ」「関川」などと記されている。
ちなみに三宝寺は、徳川家光の猪狩の休みどころに使われた縁で幕府御朱印を賜り、20数石を給されたことから有名になり、この寺の名を取って「三宝寺池」と呼ばれるようになった。三宝寺は石神井城落城後に太田道灌により移転(1477年)されたもので、元は1㎞ほど下流の現・禅定寺の北側に創建されたと伝わる。それ以前はこのあたりの地名「しゃくじ」に基づき「しゃくじ池」「しゃくじ井」などと呼ばれていたようだ。
「しゃくじ」は日本古来の神で柳田國男によれば、賽の神であり、もとは大和民族に対する先住民の信仰と言われる。
江戸時代以前の石神井川は上野不忍池に流れ、さらにそこから東京湾につながっていた。流路変更の時代については諸説あるが、1994年北区教育委員会の中野守久氏は現・石神井川から離れてすぐの谷田川(下流域では藍染川)谷底低地のボーリング調査を行い、次のような結論を得た。縄文期の気候異常による洪水で、隅田川への越流が発生し、王子方面に流出した新河流は川床を深く掘り込んで峡谷を作った。この調査結果により、従来から言われていた室町時代説(豊島氏による治水、利水のための人為的開削説)や江戸時代説(徳川家康による江戸の町づくりの一環としての治水対策の人為的開削説)は退けられている。
流路変更の時期については「縄文時代草創期~前期~中期初頭」のいつかだと考えられている。隅田川合流地点が当時の河口であり、そのすぐ近くに縄文中期(約5000年前)の初めごろから中里貝塚が形成されたことに注目すると、それ以前に越流が起きたことが有力になる。なぜなら、中里貝塚からは10cmを超す大きな粒ぞろいのマガキが大量に採取されており、大地の栄養分を豊富に含んだ真水が流れ込んでいたことを示している。つまり、縄文前期から中期初頭までには石神井川の越流ができていたことが推定される。
今から6000年前頃はおそらく気候変動が最も激しく、古東京湾からは縄文海進の海面上昇が迫り、500mも海岸が削られたという。また、陸からは洪水が押し寄せる。このような状況で越流が生じたとするのが最も蓋然性が高いと考えられる。
(2013年9月18日。平田英二先生にご指摘いただき、一部内容を訂正しました。文責:永井)